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前半の30年と後半の30年、私たちのあゆみ。

創設者

日本がバブルに沸いてた80年代。
大量生産・大量消費の時代の中で
気づいたこと。

益久のあゆみ。それは廣田益久のあゆみそのものです。益久染織研究所のことを語るのに、「前半30年」「後半30年」という言い方をしますが、前半30年は試練の時代でした。繊維一筋、一般紡績の世界で失敗を繰り返しながらの毎日。二度の大きな失敗があり、その経験を通して気がつきました。

何かがおかしい。 世の中?人?いや。自分がおかしい。そして、生まれ変わろう。 「自然」へ向かうことに。 これからは世の中の役に立ちたい。人がこの世に生かされている「生命」の本当の意味での代表になれるように。

豊かさのはき違いで無くしてきたものを取り戻す為にも。 ほんのちょっと100年前の暮らしに帰ろう。 少しずつ少しずつ戻せるものを戻し。それからが第2の人生の始まりです。

ここからは、奈良新聞(2008年10月17日)インタビュー記事で廣田が語った“益久染織研究所のあゆみ”をご紹介いたします。

自然の色に出会い、天然染色を学ぶ。

私は、兵庫県西脇市の木綿先染工場を家業にする家に生まれ、家業に従事後、 結婚して地元で糸商として独立しました。ところが、取引先の倒産のあおりで廃業し、大阪に出て再び大手商社の嘱託というかたちで糸商を再開し、その後昭和40年にふたたび会社を興しました。

当時の日本は今と違って高度経済成長期で、企業には猛烈社員があふれ、私も例に漏れず商売人の端くれとして糸素材の販売に精力を注ぐ一方で、物流センターを設立したり、事業を手広く展開していたのです。繊維業界も大量生産になんの疑いもない時代で、私も忙しく全国を飛び回っていました。

そうした折、出張先の新潟の織物工場で「自然の色」に出合ったのです。まったくの偶然でしたが、時代と逆行するようなものづくりに驚きました。もっとも、工場自体は化学染料で大量に染めていたんですが、その片隅で昔ながらの織機でことことやりながら、天然染料による染色をしていたんです。その色が化学染料とは全然違うんですね。それを見つけてから出張するのが楽しみになり、私は度々新潟にゆき、その知識と技術を実地で学びました。 商売とは直接何の関係もなかったのですが、自然の色が持つ力に魅せられたんですね。

───それが、自然を生かした糸作りに結びついていくわけですか?

廣田) はいそれはそうなんですが、すぐには結びつきませんでした。もしも、手を広げた事業が順調に行っておれば、 天然染色は趣味に終わっていたのではないかとも思います。

20年の経験から手織り教室開業

───ということは、再び事業に行き詰ったということですか?

廣田) そうなんです。昭和49年、取引先がまた倒産して大口の債権が生じまして、 この処理のために2つの会社を譲渡し、残った1つの会社を売却して債務整理をしました。 ぼうぜん自失です。妻には「あなたはしばらく休んでください」と言われました。とはいえ半年もするとじっとしていられなくなり、手紡ぎや手織り、天然染料による染色などを教える教室を始めたいと打ち明けました。

20年間、糸商を行い糸について学んできたことを生かしたい。知識と経験という貯金がある。人に十分教えることができると思いました。それで家族を説き伏せて「手織りひろた教室」を開業しました。 このころ、『染織と生活者』編集長の弘基氏の紹介で、前田雨城先生と出会いました。

前田先生は、日本古代の色彩を研究され、特に「法隆寺献納宝物」の織物の古代色彩を復元されています。私は感じることあって、知り合ってすぐに先生の講義の聴講生となりました。依頼10年間勉強を続けましたが、とても奥深く、古代の染の入り口にも入れないほどでした。 しかし、染の専門的知識はなかなか習得できなくとも、話を聞くうちに、古代の染の「心」のようなものが理解できるようになりました。 そこで得た結論は、古代の染の「心」を、私は「自然」の2文字でとらえたのです。

このように、教室で教えると同時に私自身も学ぶ生活が続きましたが、 繊維ビジネスの第一線で多忙な日々を過ごしていた時期とは違い、大変充実した毎日でした。

糸を紡ぎ染める自然な営みの開始

───ものを売るだけの仕事から、ものをつくること、つくる楽しさや喜びを教える仕事へ、方向転換されたということですね?

廣田) そうです。糸商として20年間商売に明け暮れ、最後に挫折した自分の生きざまをつくづく振り返り、がむしゃらにやってきた商売があほらしくなりました。 それとともに、糸を紡いで染め、そして織るという実に自然な仕事の営みこそ自分の生き方にふさわしいことに気づきました。

考えれば、お粗末なことでした。お粗末さを通り過ぎて気がつきました。同じ人間かというほどの変わりようです。といって商売はだめだというのではなくて、そのやり方が問題なんだと気がつきました。生き方を変えて今日まで不思議にぶれないでこられました。いまは寿命をもっとほしい気がします(笑)。

農薬や肥料とは無縁な中国の農村。

───手織り、天然染料による染色の教室を手探りで始められ、和紡積の保存活動にも尽力されていますが、今度は昔ながらの綿作りとの出会いについてお話ください。

廣田) 中国の開放政策の一環として昭和56年、染織の専門家をいうことで指導の要請を受けまして、中国に渡りました。これが、農薬や肥料(化学・有機)を過去に一度も使ったことのない綿作りとの出合いになったのです。

中国の農村では今も昔ながらの手法で行われているんです。驚きました。日本も明治のはじめまで、そうした綿作りをしていたんです。日本はすでに滅びている手紡ぎ、手織りが今も生活に根付いています。長閑な農村に出合ったとき、手作り綿製品を製造、販売したいと思いました。

ところが、現地は、繊維業の工業化に向けた農村の指導を私に期待していました。中国がやろうとしていることは、大量生産、大量消費に見合った農村の近代化であり、挫折した私の20年間と重なり、私が否定した生き方です。私は受け入れませんでした。だから、撤退すべきところだったんですが、昔ながらに綿作りをする農村が頭から離れません。

そこで私は無農薬、無化学肥料の今の中国農村の綿作りを続けることを条件に引き受けることにしたのですが、なかなか私の考えは理解してもらえませんでした。根気よく説得を続けながら中国・山東省の農村に合弁の工場をつくり、自然に逆らわない綿作りからの綿製品の製造をはじめたのです。

結局、理解を得るまでに25年かかりました。やっと5年ほど前から環境を大事にしたものづくりの意義を理解してもらえるようになり、歯車がかみ合いだしたところです。

使っていくうちに段々と手になじみ。

───肥料や農薬を使わない農法より収穫された木綿のよさはどこにあるのですか?

廣田) やはり綿が柔らかかったり、長年肌につけている心地よさだと思います。また、農薬や肥料が環境に及ぼす影響を考えると、昔ながらのやり方のよさを理解してもらえるのではないでしょうか。木綿はシルクに比べて安く見られがちでして、付加価値をつけるために後加工をほどこして薬品などを使う方向にありました。しかし、こうしたことには無理があり、繊維にとっては辛いことなんです。

われわれのやり方はその反対です。綿の持つ本来の柔らかさを大事にする。糸を紡ぐにしても紡績機械のように糸を硬くするのではなく、手紡ぎやガラ紡のもつレベルの手仕事のよさを大事にします。手作業を大事にするわれわれの仕事は、いわば80%の完成品であり、残りの20%は使ってもらう中で段々と味が出てきて肌や手になじみ、身体と一体となることによって完成品になるといえます。逆に機械でつくられたものは、100%の完成品として売られる。その後は使うほどに劣化していくことになります。

われわれの仕事は、ものづくりの工程を理解していただかないと、その良さは目で見ただけではなかなかわかってもらえない。きちょうめんな日本人には手作りの持つ荒さ、ぼこぼこ感がきっちりしていないものに見えて、敬遠されることになります。すべてを兼ね備えているわけにはいかない。

環境負担のない自給自足の村を

───最後に新しい取り組みや将来の夢についてお話ください。

廣田) 夢は多いですが、「益久村」をつくり、そこの村長になることです。 自然の中に入り、今この業態を移し、共存共生可能な施設だけを建てたいと思っています。益久村では農業をして棉を栽培し、収穫した食物を泊まっていただいた方に食べてもらう。風車や太陽光発電などでエネルギーをまかない、できるだけ環境に負荷をかけない自給自足的要素を大事にしたい。

理想郷的な村の村長です。実現したいですね。 実は、5年前に脳梗塞を患い約半年間入院しておりました。日々のリハビリ(週二回)や気導による整体などの効果もあり、少しずつ回復しています。「生涯現役」という大きさ目標に向かって一歩一歩進んでいます。

奈良新聞(2008年10月17日)インタビュー記事より