創業1957年、かけぬけた高度成長時代

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兵庫県西脇市、播州織が私たちのルーツです

益久染織研究所初代社主である廣田益久は、1928年(昭和3年)9月19日、兵庫県西脇市に機織り工場の次男として誕生しました。兵庫県西脇市は播州織の産地とし、ギンガムチェックやマドラスチェックなどの先染め綿織物の産地として今もなお続いております。家業に従事後、結婚し、1957年(昭和32年)地元で独立、「廣田商店」と看板を掲げて糸の商売を始めました。しかし〇〇年後には、商元の倒産のあおりで廃業。私が〇〇歳のときでした。自宅、山林などの不動産をすべて売り払って、債務を整理することになりました。

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債務の整理を行った時にお世話になった岩井産業(どんな会社ですか?)の矢野公平氏に誘われて、心機一転、大阪に出て糸商として再スタート。日本国中の工場に糸を販売しました。その時代は高度成長期で天然繊維に代わり化学繊維が開発され、大量生産・大量消費の時代に突入したころでした。

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大量生産・大量消費の時代へ

当時の日本は今と違って、企業には猛烈社員があふれていました。ご多分に漏れず父も糸の商売に勢力を注ぎつつ、一方で物流センターを設立したり、事業を手広く展開していました。繊維業界も化石原料での大量生産に何の疑いも持っていない時代だったのです。

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自然の色に魅せられる。

そうした折り、父は出張先の新潟の織物工場で、「自然の色」に出会いました。そこのおばあさんが工場の片隅で天然染色を行っていたのを目にしたのです。まったくの偶然でしたが時代と逆行するようなものづくりに驚いたそうです。工場自体は化学染料で大量にものづくりをされていましたが、それからは出張に行くのが楽しみになり、その知識と技術を学んだそうです。商売とは直接何の関係もなかったのですが、自然の色が持つ力に魅せられたのです。

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しかし、天然染色と自身の商売はすぐには結びつきませんでした。商売が順調にいっていれば、天然染色は趣味に終わっていたかもしれません。しかし順調だった会社も1974年(昭和49年)、に取引先が倒産。大口の債権が生じ、その処理のために2つの会社を譲渡し1つの会社を売却して債務整理しました。呆然自失です。友人の会社の保証人でした。父はその当時のことを振り返ったとき、「私の辞書から友人と言う言葉は消えた」と言っていました。