染織の専門家として、中国の農村へ

ダミー
1981年(昭和56年)に中国政府(中国国営友好商社)から染織の専門家として、日本向け商品の指導に入ってほしいという要請がありました。一枚の布を見せてもらいました。藍染のごろごろっとした穴の開いた布でした。父と二人顔を見合わせ「この布いいね」と思わずつぶやきました。今でもその布ことは忘れられません。

北京郊外に自然栽培(かつて一度も農薬や肥料を使ったことのない綿づくり)、藍染、手紡ぎで布を作っている村がありました。父が農村に入りたいといって中国政府から許可が出るまで数年かかりました。日中国交回復後の農村を海外の人に見せることは簡単なことではなかったのです。現地に入り、直接指導できないのであれば入らないと頑なに中国入りは拒んでいました。中国側は根負けし、ようやく数年後に農村に入りました。

ダミー

私も同行し、まるで日本とは違う、その様子にとてもいい意味でのカルチャーショックを受けました。その当時百貨店に勤務していたところから本当に何もない中国の様子。日本は確かにものに満ち溢れ。豊かにはなったけれど、環境は悪くなり、心は荒んでいる。方や、何も物には恵まれていない、しかし、明るく、屈託なく、前向きな、中国の人達が目の前にはいる。

百貨店勤務を続け何かが違うと私も感じていたころでした。最初の数年間は北京郊外の農村とのやり取りでしたが、山東省の企業を紹介され合弁企業を設立することになりました。1992年(平成4年)北京工芸(中国へ招き入れた国営の友好商社)、山東省の法人企業、益久の3社の合弁工場です。中国の開放政策の一環として、工芸品の糸や布として日本に輸出しました。