手織り教室から、益久染織研究所へ

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1994年(平成6年)の10月に「手織りひろた」から株式会社益久染織研究所に個人から法人になりました。益久染織研究所の社名は前田先生がつけて下さいました。これからの時代は商売だけでなく、研究開発しながら続けなければいけない。そんなとこから益久染織研究所と名付けて下さいました。染織(そめおり)を研究しながら、皆様に継続してに益をお分けする。益久染織研究所(ますひさそめおりけんきゅうしょ)の誕生です。

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翌年1995年(平成7年)1月17日、当時、阪神大震災に見舞われ自宅は全壊、震災後、一週間目の1月24日に奈良に嫁いだ私のもとに両親を呼び寄せました。着の身着のまま、持ち出せたのは自宅前にあった仕事場のものだけでした。こうして益久染織研究所は奈良、斑鳩での再々スタートを始めました。奈良に来てからは以前以上に猛烈に活動を始めました。

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大和川ワースト1の汚名をぬぐうために大和川に水車をかける運動や、地元高校生に社会科の課外授業として綿づくりから染織の手仕事の講義など、事業と啓蒙活動の日々でした。

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2000年(平成20年)にはいるとアパレル向けの仕事の全盛期で、それはそれは、クレームばかりでした。VANの石津健介氏、ヨーガンレール氏など名だたるところがクライアントでした。手紡ぎの良さを残すと縫製工場にはすべてB反と言われ、紡績に近づけると味気ないと言われ、試行錯誤の結果、自社基準を設けるしかないと思い、研究、開発をしました。現地の布はとてもごろごろでいかにも手紡ぎという感じがとてもよくわかるものでした。

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しかし、固く、重い。日本向けに作るには軽く、柔らかいものに仕上げなくてはと思いました。手紡ぎをして下さる農家のおばあちゃんたちはとても巧みで、とても繊細な糸を色々とお願いする中で、作って下さいました。又、クレームになっていたネップ、織り段なども色々改良を加えました。手紡ぎの良さを残しつつ、たくさんの方に使っていただける布にする。工芸品としては生き残れないからです。

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動力織機を用いたのも、のちに価格が、上がってきたときのことを考えたからです。正気の沙汰ではありません。手紡ぎ・ガラ紡糸を動力織機にかけるのですから。こういう糸は本来、手織り機にかけるものです。しかし、動力織機にかけたから今があるのです。手織り機でずっと織っていたら、価格が合わなくなり、続けることはできなかったでしょう。当初、A反が20%だった頃から90%以上になるには工場も色々研究し、努力してくれました。補修することが一つの方法でした。機からおろしてすぐの生地を補修し、糊を落としをしたあと、もう一度補修します。このことが一手間がかかります。