モノを売るだけの仕事から、つくる楽しさや喜びを教える仕事へ

ダミー

さんざん人を恨み、どうすることもできなく、菩提寺の高野山の住職さんに諭され、はっと目が覚めました。「人のことをどうこう思うことではない、自分が甘かった、間違っていたのだ」と。母へは「あなたはしばらく休んでいてください」と言われました。

とはいえ半年もするとじっとしていられなくなった父は、20年間、糸商を行い、学んできたことを生かしたいと、母を説得し、手紡ぎ、手織り、天然染色を教える教室を始めました。自分に何ができるかと考えた時に知識と経験で教室ができると思ったようでした。1975年(昭和50年)、自宅のある兵庫県西宮市で「手織りひろた」教室の開校です。それから約30年間教室は続きました。

1975

30年間続いた手織り教室と、古代染色家「前田雨情先生」との出会い

このころ、「染織と生活社」編集長の富山弘基氏の紹介で、前田雨城先生との出会いがありました。

前田先生は、日本古代の染織を研究されており、「法隆寺献納宝物」の古代色彩を復元されています。父は前田先生の講義の聴講生となり、10年間勉強しましたが、とても奥深く、古代染めの入り口にも入れないと言っていました。

しかし、染の専門知識はなかなか習得できなくとも、古代の染の「心」のようなものが理解できるなりました。そこで得た結論は、古代の染の「心」を「自然」の二文字でとらえたのです。それからずっと前田先生は顧問として見守って下さいました。

天然染色は自然の命をいただき、土、水、空気、すべての自然からの恵みのものです。前田先生を顧問に「日本全国植物研究会」が発足され、会員として活動しました。日本各地の伝統文化を守り、継承したいと願っていました。

ダミー

1980

第一次ホビーブームの到来

そうして前職とは全く逆の道を歩み始めたころ、阪神百貨店から「草木染」の店を出してもらえないかというお誘いがありました。もう二度と商売はしたくないということで再三お断りをしていました。その時に私がそのお話を聞き、私がお店をするので応援してくださいと言い出店しました。

その当時は第一次ホビーブームの時代でした。1980年(昭和55年)、戦後食べること、家電製品、家、ようやく余暇を楽しめる時代になったのです。日本国内の百貨店に「草木染」という屋号のお店はなかったのです。

ダミー
廣田は読書が趣味でよく本を読んでいました。1960年代(昭和35年)に我が家にタイトルは曖昧ですが「21世紀の未来」を予測した本があり、そこには太陽発電が各家庭につくということが書いてありました。イラストのが多い本で子供心に将来こうなるのだということを思っていました。今、思えば、前職の商売で忙しく駆け回る反面、心のどこかで、食い違っていたのかもしれません。