
History
出張先で偶然出会った、
自然の色
私たちが自然に寄り添った「糸」と「布」の仕事に携わるようになったのは、益久染織研究所の創業者「廣田益久」が、出張先で偶然見かけた「天然染料の布」がきっかけです。
1980年代の日本は高度経済成長期の真っ只中。廣田も商社マンとして全国を飛び回る忙しい日々を送っていました。そんなある日のこと。偶然、出張先の新潟の織物工場でふと目にしたのが、片隅で昔ながらの織機を使い、天然染料で染められた布でした。その瞬間、心に何かが響いたのでしょう。その布の色合いが化学染料では決して出せない美しさを持っていたことが、大きな衝撃だったといいます。
手織り教室を始める
「糸を売るだけでなく、糸や布を作り、その喜びを伝える仕事がしたい」。廣田は、それまで長年培った知識や経験を、手織り教室という形で実現したいと考えました。忙しさに追われる日々の中で偶然見つけた「自然の色」は、単なる事業の方向転換ではなく、新しい価値観をもたらしました。
写真)商社マンとしてバリバリと全国を飛び回っていた30代の頃の創業者「廣田益久」。
ガラ紡との出会い
その後、教室は多くの生徒さんに恵まれ、手紡ぎや手織り、染めの技術を通じて自然と向き合うモノづくりの楽しさを伝えながら、充実した日々を送っていました。
そんなある日、愛知県でガラ紡の保存活動を行う方々から声をかけていただき、参加することになりました。試行錯誤の末、今では和紡布の代名詞とも言える「和紡布のふきん」が出来上がりました。このふきんは、自然との共生や手仕事の価値を象徴する大切な存在となっていきました。
写真上)愛知県岡崎には昭和60年頃まで、水車を動力にしたガラ紡機を担う民家が点在していた。下)ガラ紡の保存運動に取り組む先代。
工業化を求められた中国の農村で
出会った手作りの風景
教室も軌道に乗り、公私ともに充実した日々を送っていた1983年、廣田は中国の開放政策の一環として、染織の専門家として指導を求められ、私も同行して中国へ渡ることになりました。
当時、彼らが求めていたのは、大量生産・大量消費に対応する農村の工業化の指導。それは私たちが思い描く理想とは異なっていました。けれども、かつて日本でも当たり前だった手紡ぎや手織りの文化が、農村の暮らしの中に息づいている。その事実を知ったとき、どうしてもこの伝統を守りたいという気持ちが抑えきれなくなりました。
私たちは、「農薬や肥料に頼らない、昔ながらの綿づくりを続けること」を前提に、このプロジェクトを引き受ける決意をしました。 もちろんこの考えを現地の人々に理解してもらうことは容易ではありませんでしたが、あきらめることなく伝え続け、25年。ようやく10年ほど前から、自然と共にあるものづくりの意義を、現地の方々と分かち合えるようになってきました。
写真上)私たち日本からの視察団が訪れた、北京郊外の藍染工場。中)私たちがはじめて訪れた1983年の中国の農村風景。ロバに引かれた荷車に乗る農夫の姿は、穏やかな農村の暮らしと自然の広がりを教えてくれました。
自分は半分日本人で、
半分は中国人の気持ちでいる
当時、日本と中国の間にはまだ歴史的な課題や複雑な感情が絡み合っていました。それでも、相手を理解し相談し合い、共に成長していくことが何よりも大切だと信じていました。この信念がなければ、これほど長い間この事業を続けることは到底できなかったと思います。廣田はよく、「自分は半分日本人で、半分は中国人の気持ちでいる」と言っていました。
昔ながらの綿作り、手紡ぎや天然染料によるモノづくりを選んだのは、きっと「自然とともに生きる」という人間としての原点に戻るためだったのだと思います。この想いが今の益久染織研究所の原点となり、私たちが受け継いでいる仕事の芯にもなっています。
写真上)中国の工場のメンバーと私たち視察団が最初に訪れてから数十年ぶりの記念撮影。初めての訪問から長い年月が経ち、技術や文化を通じて培われた交流が今も変わらず続いていることを感じさせる、温かいひととき。
